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野呂佳代のAKB48時代とは?チームKデビューから卒業まで元教師が追う

野呂佳代さんのAKB48時代を「華やかなアイドル活動」だと思っていたとしたら、
ちょっと待ってください。

実はそこには、年齢を偽って臨んだオーディション、チーム内での激しい劣等感、
そして「神7」には永遠に選ばれない悔しさ──
アイドルの舞台裏でもがき続けた、もうひとつの物語があります。

こんにちは、なおじです。
元社会科教師として35年、生徒たちに「歴史には表と裏がある」と教えてきました。
野呂さんの芸能史を調べていたら、まさにそれを感じさせるエピソードがぞろぞろ出てきて、
子ども達のための資料づくりそっちのけで(笑)読み込んでしまいました。

この記事を読み終わるころには、「なぜ野呂佳代さんがバラエティで生き残れたのか」が
AKB時代から逆算して、スッキリ見えてくるはずです。

この記事でわかること

  • 野呂佳代さんがAKBに入った経緯とデビュー時の衝撃エピソード
  • チームKとしての活動内容・選抜参加歴
  • AKB時代の”面白キャラ”誕生の裏にあった葛藤
  • SDN48キャプテン就任の経緯と意味
  • AKB卒業が、その後の野呂さんをどう変えたのか
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目次

2006年・22歳で射止めたAKB入団の扉

履歴書を”全力で盛った”オーディション

野呂佳代さんがAKB48に加入したのは2006年、第2期追加メンバーオーディションのことでした。

合格発表は2月26日。
そして4月1日、AKB48劇場のチームK初日公演でデビューします。

ここで衝撃的なのが、デビュー時のオーディションにまつわるエピソードです。
本人がのちに「あちこちオードリー」(テレビ朝日系)で告白しているんですが──

「履歴書とか全部ごまかしてる」

実年齢22歳なのに20歳と記載し、
顔写真は”盛り”、全身写真はなんと縦に引き伸ばし加工して提出していたと言います。

さらに本人は「正直太っていた」が、
「顔はまあまあ普通にヤセているように見えた」「テレビ電話オーディションのおかげで入れた」と自認しています。

なおじ流ひとりボケ:「縦に伸ばした写真ねえ…。
なおじも校長時代、年度末の写真撮影で”ちょっとだけスリムに”とか思ったことありますよ(笑)。
でも採用写真じゃないんだから、それはさすがに別の話ですね」

同期には大島優子さん、秋元才加さん、梅田彩佳さんという、のちのAKBを代表するメンバーが並びます。

その中に22歳の野呂さんが、ちょっとした”詐称”込みで紛れ込んでいたわけです。

チームKとは何か?野呂さんの立ち位置

AKB48は当時、チームA・チームK・チームBという3チーム制でした。
野呂さんが所属したのは「チームK」。

チームKは「体育会系・元気・実力派」のイメージが強く、
大島優子さんや秋元才加さんが牽引するチームでした。

野呂さん自身はデビュー当初から「お笑い担当」的なキャラクターを発揮し始めます。
同期の佐藤夏希さんと組んだお笑いコンビ「なちのん」を結成し、
2007年10月には『M-1グランプリ』にも初出場。
2008年にも再挑戦しました(いずれも2回戦敗退)。

アイドルがM-1に出る──というのは当時かなり異色の試みで、
「野呂佳代、やっぱりただの可愛いアイドルじゃないな」という印象を世間に植え付けた出来事でしょう。

👉関連記事:野呂佳代の経歴と現在・42歳でブレイクできた3つの理由 ①

選抜・最年長記録とAKB内での葛藤

メジャー1stシングルで最年長選抜

AKBのシングル選抜に選ばれることは、メンバーにとって最大の目標です。

野呂さんは2006年10月リリースのメジャー1stシングル「会いたかった」で選抜入りを果たします。

このとき、22歳362日という”当時最年長記録”での選抜でした。

「会いたかった」といえばAKBの原点ともいえる楽曲。
その選抜メンバーに名を連ねたことは、野呂さんにとって間違いなく大きな誇りだったはずです。

でも、ここがまた野呂さんらしくて──
「最年長記録」という肩書き、普通なら自慢できるところを、
後年の本人インタビューでは「何をしゃべっても”ばばあ”扱いされるのが凄く嫌だった」と苦笑いで振り返っています。

なおじとしては、これ、すごくよくわかります。
教室でも「一番背が高い生徒」や「一番成績のいい子」が、逆に浮いて苦しむことがある。
「記録」が必ずしも居心地の良さに繋がらない、という人間的な真実ですよね。

神7への嫉妬と劣等感

野呂さんは後に、AKB時代を振り返ってこう語っています。

「初日からずっと嫉妬と劣等感の塊でした」

「神7」と呼ばれる前田敦子さん・大島優子さんらトップメンバーへの憧れと劣等感。
そして、体型へのコンプレックス

AKBのハイタッチ会でメンバーから「アイドルとはこういうもの」と熱心に教えられたことで、
自分の体型に対する劣等感をより強く抱くようになったといいます。

アイドルの 舞台の裏で もがく秋

華やかな衣装の裏側で、一人の22歳の女性がずっと自分と戦っていた。
そのことを知ると、野呂さんの「笑顔」の重みが少し変わって見えてきませんか。

AKBの選抜参加楽曲一覧(主要なもの)

楽曲収録CD名義
会いたかったメジャー1stシングルAKB48
大声ダイヤモンドシングルチームK ver.
夕陽を見ているか?シングルひまわり組名義
ロマンス、イラネシングルひまわり組名義
今日までのメロディーラブラドール・レトリバー収録AKB48

チームKからSDN48へ・異動とキャプテン就任

SDN48誕生とキャプテンへの道

2009年8月、野呂さんは新グループSDN48の活動を開始します。

SDN48は「Saturday Night」の略で、”大人の女性向けアイドルグループ”として設立されました。
チームK時代の同僚・佐藤由加理さん、大堀恵さん、浦野一美さん、小原春香さんとともにスタートしたこのグループで、野呂さんはキャプテン(通称:キャップ)に任命されます。

これは単なる”年長者への配慮”ではなかったと思います。
AKB時代から体張った活動・ユニーク発言・M-1挑戦と積み上げてきた”存在感”が、
キャプテンという役割への信頼に繋がったのでしょう。

なおじは35年間、教育現場で役職を経験しましたが、
「名ばかりのリーダー」と「本当にチームを引っ張るリーダー」の違いは、
肩書きよりも”現場での振る舞い”で決まります。
野呂さんはAKB時代の葛藤をくぐり抜けたからこそ、キャプテンを務められたんじゃないかな、と思うんですよね。

AKB正式卒業・2010年2月

2010年2月21日、「チームK 5th Stage『逆上がり』」公演の千秋楽をもって、
野呂さんはAKB48を正式に卒業します。

SDN48へ完全移籍し、キャプテンとして新たな章がスタートしました。

同時に所属事務所もAKSから太田プロダクションへ移籍することが発表されました(2010年3月)。

太田プロは吉本興業と並ぶ”お笑い・バラエティ”の老舗事務所。
この移籍先の選択が、その後の「バラエティタレント・野呂佳代」という方向性を決定づけたと言えます。

👉関連記事:野呂佳代の旦那はテレビスタッフ!3年交際から結婚の経緯 ②

SDN48キャプテンとしての3年間

「GAGAGA」で念願のメジャーデビュー

SDN48として最大のハイライトのひとつが、2010年のメジャーデビュー曲「GAGAGA」への参加です。

番組「すっぽんの女たち」内での選抜オーディション企画があり、
野呂さんは3位で見事選抜入りを果たしました。

アイドルとして「選抜に選ばれる」ことの喜びを、再び味わえた瞬間だったはずです。

2011年10月には、SDN48の解散が正式発表され、
2012年3月31日のNHKホールでの「NEXT ENCORE」コンサートをもってSDN48を卒業。

AKB48グループでの活動は、2006年から2012年までの約6年間に及びました。

在籍中に磨いた「舞台」と「笑い」の原点

AKB在籍中、野呂さんはバラエティ活動だけでなく、舞台にも積極的に取り組んでいます。

2009年1月、舞台「真里亜〜その愛の果てに〜」で舞台初出演にして主演を務めました。
のちに女優として開花する野呂さんの”舞台人”としての原点が、このAKB在籍期間にあります。

また、M-1への2度の挑戦もこの時期です。

アイドルとして歌って踊るだけでなく、お笑い・舞台・バラエティと幅を広げていった野呂さん。

「目標は女優だったから、AKBはその足がかり」と本人が語っているように、
この6年間はすべて次のステージへの準備期間だったといえます。

AKB卒業後が「本番」だった理由

有吉さんの説教が転換点に

AKBという大きな看板を失った卒業後、野呂さんは「芸能界を辞めようと思ったことが何度もあった」と告白しています。

転機は、卒業から数年後の『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)での有吉弘行さんによる”説教”でした。

パチンコのレギュラー番組を担当しながら将来への不安を打ち明けた野呂さんに、
有吉さんは一喝します──「パチンコ番組、全力でやれバカ!」

「ガツンと言われて目が覚めた」と野呂さんは振り返ります。

なおじも長年の教師生活で、「先生に叱られてから変わった生徒」を何人も見てきました。
叱ることと励ますことは、実は紙一重なんですよね。
有吉さんはまさに”先生”の役割を果たしたわけです。

AKB時代があったから、今がある

野呂さんは2021年のインタビューでこう語っています。

「15年経って、やっと一歩を踏み出せたような感覚がある。
これまでの15年は、女優になるための下積みだったのかなと。」

AKB時代の葛藤・劣等感・体型コンプレックス──
それらをすべて飲み込んで笑いに変えてきたからこそ、
「出るドラマにハズれなし」と言われるほどの女優・タレントに成長できた。

これをなおじ流にまとめると──
**「AKBの6年間は失敗ではなく、人間としての厚みを作った時間だった」**
ということではないでしょうか。

喝一言 有吉の声に 目が覚めた

👉関連記事:野呂佳代のダイエット方法と体重変化・痩せた理由(記事執筆後リンク予定) ④

よくある質問(Q&A)

野呂さんは第2期追加メンバーオーディション合格です。2006年2月26日に合格が発表され、4月1日のチームK初日公演からデビューしました。一般的に「2期生」と分類されます。同期には大島優子さん、秋元才加さん、梅田彩佳さんがいます。
主要な選抜参加は1stシングル「会いたかった」が最も有名ですが、その後はひまわり組・チームK名義での参加楽曲が多く、選抜常連ではなかったというのが正直なところです。「会いたかった」での最年長選抜記録は22歳362日でした。AKBの中でどちらかというと”個性派枠”として活動していたと言えます。
SDN48は”大人の女性向け”グループとして設立されたため、野呂さんの「年長者として場を仕切る力」「バラエティ的なキャラクター」が活きる場でした。番組企画「すっぽんの女たち」内での選抜オーディションでも3位を獲得するなど、リーダーとしての存在感を発揮していました。グループは2012年に解散し、SDN48の最後のコンサートまでキャプテンとして全力で務めました。
本人によれば「なりたくていじられキャラになったわけではない」とのことです。AKB卒業後に自分が活躍できる場所を模索した結果、バラエティでの活躍に自然と辿り着いたと語っています。テレビ東京「ゴッドタン」でザコシショウさんを完コピした際に「これでいいんだ」と吹っ切れたと話しています。AKB時代に積み上げた「笑いを恐れない」姿勢が、この方向性を後押ししたのでしょう。
SDN48への完全移籍がそのまま卒業の理由です。2010年2月21日のチームK千秋楽をもって正式卒業し、以後はSDN48のキャプテンとして活動に専念しました。もともと「女優になる足がかりとしてAKBに応募した」という本人の言葉通り、次のステージへ進むための”自然な卒業”だったと言えます。

👉関連記事:野呂佳代の若い頃と現在の変化・昔の写真まとめ(記事執筆後リンク予定) ⑥

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

教壇では進路相談だけでなく、生徒の「このままでいいのか」という悩みを何百回と聞いてきました。野呂佳代さんのAKB時代を調べていたら、どこかあの頃の生徒たちと重なって、つい熱が入ってしまいました(笑)。葛藤しながらも自分の道を切り開いた人間の話は、いくつになっても読み応えがあります。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

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